白い景色が二人を包んでいる。
「先生。あなたが好きです……」
聞き取れないほど、小さな声だったかもしれない。
しかし、それが精一杯の想いだった。
幾つかの白い雲が浮かんでは消える。
先生の足下を、歪んだ視界で見つめながら私は待った。
「……」
「……」
聞こえなかったのだろうか――?
微動だにしない足下には雪がそっと腰を降ろしていく。
「……」
顔をあげられない。
先生が不機嫌になっている気がして、それを見るのが怖くて、降りてきた雪が休んでいる雪と融け合わさっているのをただじっと見ていた。
だから先生の足が私の方に一歩踏み出した時、雪が驚いて飛び散った。
ポンッ
すっかり冷えきった大きな手の平が、私の頭を優しく撫でる。
おそるおそる、瞳をあげる。
先生がくわえている燃え尽きた煙草が映る。
その口が開くことはない。
真一文字(まいちもんじ)に固く閉ざされていた。
落ちてくる雪に逆らうように、ゆっくりと先生の瞳に合わせる。
いつもと変わらない渇いた瞳。
その瞳は私を見ていて、私を映すことはない気がした。
それが、答えみたいで、信じたくなかった。
優しく私に積もった雪を払う先生の手が、悲しいほど愛おしかった。
ふいに堪えていた涙が溢れ出した。
先生が歪んでは消え、現れてはまた歪む。
先生は相変わらず無口で、しかし撫でていた手がとまっていた。
その手が、今度は私の手を包み、強く引っ張る。
冷たい手と手が雪のようにくっつく。
背中だけが見える。
先生は、校舎に向かって歩き出した。
つられて、私も歩き出すが、泪はとまらない。
無言の背中がこんなに辛いのは、初めてだった。
(先生)
いつものように、呼んだら振り向いてくれますか?
何も答えてくれない大きな、大きな背中には、沢山の雪が流れ落ちていく。
望んだ返事を先生の口から聞けないまま、私の短い恋は終わったのだった――
それから、私は先生に会いにいくのをやめた。
先生の後ろ姿を眺めるのもやめた。
雪が降ると飛び出す先生を追いかけるのもやめた。
先生に声をかけるのもやめた。
しかし、先生を想うのだけはやめれなかった。
目を閉じれば、先生の姿が見えてしまう。
先生、と呼べば、必ず振り向いてくれる。
その表情はいつも気怠そう。
そんな仏頂面な先生は、雪が降ると背中だけは嬉しそうだった。
雪が積もっては、休み時間に人気のない校舎裏でひたすらカマクラを作っては中に入って気の済むまでそこにいた。
七輪まで用意して、放課後、無表情でもちを焼いている先生の姿は、普段のイメージとは違っていて、すごく似合わないのに、なぜか可愛らしさを感じた。
全部私だけの秘密。
先生と私だけの秘密だった。
窓から見える雪化粧。
まっさらな雪の校庭で、先生の無感情の瞳がずっと私を見ている気がして、そんな淡い期待が浮かんでは雪が溶かしていった。
あの時、先生が何を思ったのか、読めない気持ちに、イライラが積もった。
もうすぐ、先生に会えなくなる――
その事実があっても、雪だるまみたいに動けなかった。
でも、雪がいつか溶けてしまうように、その日が来てしまった。
その日は先生の好きな雪は降らなかった。
昨夜降った雪は相変わらず積もっていて、曇り空だけが顔を出していた。
旅立ちの歌を歌っているとき、ふと、壇上にいる先生を見つけた。
相変わらず、不機嫌そうに歌っている。
いつも通りの先生でした。
先生にとって、私はただのどこにでもいる生徒だったみたい。
なんだか、ここ二ヶ月の私がとんでもなく滑稽に思えてきて、別れの歌でよかったなぁと目頭を拭った。
ホームルームも終わり、みんなそれぞれに別れを惜しんでいた。
必ず、またいつか、そう口にして、みんな前に踏み出す。
私はその言葉をあの人に伝えられないまま、外へと向かう。
これで本当に最後。
あの門を出たら、もう、会えない。
それで、いい。
それでいいんだと、言い聞かせる。
悔いを振り払うように足早になる。
ふと、冷たいものが鼻に触れた。
あぁ……雪だ。
灰色の雲が、別れを惜しむかのように、泣いている。
――先生。
門に背を向けて、私はあの場所に向かう。
先生と私しか知らないあの場所に。
最後に……。
せめて最後に一言……。
「先生……っ」
カマクラの外でもたれて、一服していた先生がいた。
私を見ても、表情を変えない。
久しぶりに正面から見る先生が、知らない先生みたいで怖かった。
あの時、告白なんてしなかったら、以前のようにこの日まで、一緒にいられたかもしれないのに。
笑って、『またいつか会いましょう』って、別れられたかもしれない。
この状況がこんなにも辛いなんて思わなかったのかもしれないのに……。
あの時のあの自分がすごく恨めしかった。
もう、声も出せないくらい涙が込み上げきた……。
「っ……せ…………」
先生、さようなら。
そう言いたいのに、出てこない。
カタチにしたら、もう二度と会えないから。
いわなければ前に進めないのに、こんなにも未練がある。
また先生の足下しか見れなくなった。
もっと先生と話したかった。
もっと先生と雪で遊びたかった。
先生の後ろ姿をもっと眺めていたかった。
先生の隣にいて、もっともっと、先生を知りたかった!
なんで、私、先生から逃げてしまったんだろう?
告白して、先生から逃げて、自分の気持ちにも逃げてしまった。
もう、無理なんだ。
あの時に戻れないんだ……。
先生……私、ここから遠い大学へ行くんです。
もう会えないかもしれないんです。
だから、さよならを言いたいんです。
でも、声がでないんです。
――先生の気持ち、最後までわからなかったです。
先生の足下が揺らいだ。
「……」
涙で揺らいだのではなく、先生がこっちへ来たのだとわかったのは、私の頭を優しく撫でてくれていたから。
けれど、今度は顔をあげることが出来なかった。
先生の気持ちはあの時から変わってないということだから。
「せん、せい……さよ……う……なら…………」
途切れ途切れにようやく告げることができた、別れの言葉。
なんでこんなにも切ないんだろう。
あぁ、もう行こう。
ここにいたら、堪えられない。
「え……?」
意を決して、後ろへ下がった時、誰かが私の右手を掴んでいた。
誰かって先生しかいない。
でも、なぜ?
その上に先生の手が重なる。
冷たい手の中に、何か暖かいものに触れた。
ゆ……びわ?
なぜ?
どういうことなんだろう?
先生の顔を見ても相変わらずの仏頂面。
しかし、どこかさっきよりも不機嫌?
そして再び私の右手を掴んでは、指輪を奪って、私の右手の薬指にはめた。
はめた。
「………………え」
あ、あれ?
顔が熱くなってきた。
だって、これって……。
「気付くのが遅い」
勢いよく引っ張られる。
柔らかい感触。
暖かい。
少しだけ速く感じる鼓動に、私はなぜか安堵した。
先生の大きな腕が私を包んでいる。
ずるいです、先生。
こんな答え方があるなんて。
あぁ、なぜだろう。
春になっても先生が隣にいるような気がするのは。
私の勘違いでなければいいのに。
「先生、好きです。大好きです」
「……」
答える変わりに、先生は私を引っ張り、カマクラの中へ。
ドカッと一緒に座った先生は、問答無用というように、私の唇を奪う。
「俺もだ」
耳元で囁かれた優しい声。
カマクラの雪が融けるくらい、熱くなる。
あぁ、もう、私、幸せです――。
了
2013/9/16 彩真 創
ーー天狼の涙雲は朧となるーー
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