「あぁ、どうしましょう」
夜空に向かって、窓辺に寄りかかった若い貴婦人が小さな息をはく。
「なにか、お困りかな? 麗しいお嬢さん」
そんな彼女の元に、怪しげなマントで全身を纏ったおばあさんがしわがれた声をかける。
「えぇ……、小さなお婆様。わたくし、もうどうしたらいいのかわからなくて……」
愛おしいあの人のことを想うと胸が苦しいの。
そう告げる貴婦人に、うんうんと頷き答えるおばあさん。
「そうかい、そうかい。そんなお困りのお嬢さんにとっておきのものをあげよう」
「まぁ、なにかしら?」
「ふふふ、それはね。恋の秘薬さ。愛しい愛しい、彼になれる……ね」
「それは、素敵! いつでもあの人を見ていられるわっ」
疑問に持たない、貴婦人はその怪しげな薬を受け取ってしまった。
「では、良い夢を……」
「お婆様も! さぁ、さっそく飲んでみましょう」
疑いもせず、不覚も考えずに彼女はフラスコに入った紫の怪しい液体を一気に飲み干しました。
すると――。
「ふざけんなーーーーーーーっ!!!!!」
派手に台本をやぶく虹野 氷華璃(にじの ひかり)はそれを、思いっ切り元凶へと投げつけるが、間一髪よけられる。
「なんなんだっ。この描写にこのバカげたセリフは! 本当になんなんだ!!」
バレエで、これを!? 頭大丈夫か!?
脚本家の端くれ都津野 実蛇蚊(つづの みたか)の胸ぐらを掴み怒りをぶつける。
台本を書いた当の本人はニマニマしながら、へらへらしていた。
「えー。結構受けたぞ。監督やスタッフは」
「そりゃそうだろ! 当事者以外は、別に関係ないもんなっ。俺は降りる」
我慢できず元凶をぼこぼこにしながら、降板宣言をする。
「痛いな〜。これ、降りれないぞ。もう宣伝したし、ポスターも会場も決まっているから」
「手際いいなっ。どうやったら、これをオンエア出来るようになるんだよっ」
氷華璃は周囲に止められながらも、ボコボコにした脚本家に噛み付くが、悪魔の包囲網のごとく憎たらしい元凶は、
「そんなの世の中、金に決まっているだろう?」
爽やかに、悪役ぴったりの台詞を言い放ったのだった。
気になるバレエ舞台の脚本とは、冒頭の貴婦人が主人公で、その貴婦人には夫の他にある想い人がいたのだが、中々、夫にもその想い人にも心に秘めた気持ちを打ち明けられない。
そんな中、冒頭のおばあさん、怪しい魔女に出会い、不思議な薬をもらう。
それを飲んだ彼女は、想い人……の姿にならず、男になるのだった。はじめは驚くものの、なぜか、夫よりも想い人よりもかっこいい生き様をみせる……という、ぶっちゃっけアホなストーリーだった。
で、問題なのがその天然極まりない主人公の役をするのが、今大人気絶好調のバレエダンサー氷華璃となっていること。
細身で平均的な身長を持つ彼だが独特ある跳躍と迫力ある踊りは、右に出るものがいないほど絶賛されていた。
小顔の彼だからこそ、おそらく彼の周囲は氷華璃の女装姿が見たいだけでこの企画、もとい舞台を立ち上げたように見える。
その筆頭が氷華璃の無二の親友、都津野だった。
「俺以外はほとんど普通のセリフなのに、なんで俺だけこんなキショイ言葉を吐かなきゃいけないんだよ!」
例えば、君のためなら死ねる。君はどんな華よりも美しい……など。
「しょうがない。依頼主の要望だ。多額の寄付をしてくれたからな」
「それが狙いか!」
「世の中金だ」
「お前にはそれしかないのか!!」
友情より金をとる、無慈悲な親友に、氷華璃はキレる。
「俺は、妻だっているんだぞ……。あいつの前で、こんな恰好をするなんて……っ」
死んでも嫌だ!
氷華璃にはもうすぐ結婚一周年を迎える、愛しい愛しい、妻がいた。
彼女に知られたくもないし、彼女の前で披露だってしたくない。
「まぁ、とにかく、お前の衣装も出来上がっている。降りることは出来ない。つーか、無理」
「女の役なんて、できるかよっ」
「大丈夫だ。衣装もメイクも試しにやってみたらかなり、よかった。ぎこちなくても、みんな萌えてくれるよ」
「俺は女装したことないぞ! 勝手なことを言うな」
「あー、パソコンでシミュレーションしたんだ、ほら」
氷華璃以外、全員悪友の味方らしい。叫んでいるうちに押さえられている目の前に、可愛らしい氷華璃の女装姿がパソコンのディスプレイに映し出される。
「これ、ちなみにポスターの写真」
「勝手に合成すんな〜〜! この詐欺師!」
「そんなに怒るなよ。実際にやってもほとんどこれと変わらないと思うし」
「なるかっ。いやだ、絶対嫌だ! そんな馬鹿役」
「一流のダンサーは、女役も立派にやれて、一流なんだ」
「んな、手にひっかかるかっ」
「んー。じゃあ、親友の頼みで」
「お前なんか、親友でも何でもない! 金で友情を売っただろうが」
「それは、それ。これは、これだ。そうか……。じゃあ奥の手。言わない方がいいと思ったんだが……」
「奥の手だろうが、やらんもんはやらん」
「これに多額の寄付をしたのはお前の奥さん」
「なにを言われても………………い、いま、な、んて……?」
「これを作って欲しいって依頼してきたのはお前の奥さん。結婚一周年記念でやってほしいんだと。これ、証明書」
冷水を浴びたかのように氷華璃は震える手で小切手の名前を見る。確かに氷華璃の妻の輝美(こうみ)の名前だった……。
「まぁ、あきらめるんだな」
女装姿を期待していたのは監督やスタッフだけでなく、親友もで、その最たる元凶が愛しの妻……。
その後、砂になった氷華璃は数週間、もぬけの殻で稽古を続け、魂なしの舞台は大きな反響を呼んだという。
何ともいいようのない、話だった。
ちゃんちゃんっ
終わり。
了
2012/8/12 彩真 創
ーー天狼の涙雲は朧となるーー
に先に掲載、後にこちらに移行。