華は夜を愛す。



「つめ、たっ」
 驚愕な叫びと共にガランッとけたたましい音が床に響く。
「目ぇ、覚めた?」
 怒りを滲ませる私に対し、ただ呆然と寒さに震える彼。そんな姿も素敵だと思うのは私の頭が壊れ始めているからだろうか。
 私を見上げるその瞳はかつての眼差しを映さず、どうして、としか書かれていない。
 これもダメ。
 私は何度目かになる落胆を味わう。
 カラカラと端まで転がったバケツが気まずい雰囲気を醸し出す。
 そんな時に部屋に入ってきた間の悪い人物は現状に瞠目しながら、不機嫌な私と怯えている彼の間に立つ羽目に。
「えーっと……と、とりあえず、部屋の掃除をしよう。そうしよう」

 

 

間

 

 

「で、なんで、あいつに氷水をかけたんだ? 今は夏だけどさすがにやり過ぎだぞ」
「思い出だから」
「冷水浴びせるのが、思い出かよ」
 どんな思い出だよ、そう瞳で訴える煉矢(れんや)を無視してIHにヤカンをセットする。
「そんなことよりダーリン。頼んでたもの用意できた?」
「ああ。って、ダーリンはあいつに言えよ」
 しょうがないじゃない。今はあんたが恋人なんだから。
 ちゃんと中身が見えないように袋にいれてくれた苦手なものを受け取りつつ、ありがとうのお返しに今カレの煉矢に抱きついて、向こうでびくびく着替えているあいつに見せつける。だけどあいつは困った顔をして後ろを向いてしまった。
 その背中にはいつも見ていた火傷の跡が、なぜか違う傷跡に見えて胸の辺りが痛んだ。
 下唇を噛んで泣くのを我慢する。悔しいから。
「なぁ、俺が言うのもなんだけど、もう少しゆっくりでいいんじゃないか? あいつの記憶を思い出させるの」
 こういうのは時間の問題って医者も言ってたじゃないか。煉矢はそう説得しようとするが、その時間が足りないから私は焦っていた。
「後悔してもしらないぞ」
 もうすでに何度目かの後悔をしている。

 

 

間

 

 

 慎夜(しんや)の携帯から、彼が病院に搬送されたと電話を受けたときは本当に心臓が止まったと思った。
 階段で見知らぬおばあちゃんを助けようと一緒に階段を転げたそうだ。
 彼らしい。
 庇われたおばあちゃんは足に軽い怪我をしただけだったけど、慎夜は床に頭を強く打ち付けたのだ。
 意識不明だと聞かされた。命に別状はないと告げられたが、このまま目が覚めなかったらどうしようと心臓が五月蝿いくらい不安にかられ、ようやく目を開けたと思ったら、彼の発した言葉にまた、心臓が止まった。
 目覚めた彼は自分の記憶を無くしていた。そして私の記憶も。
「わ、たし……の、名前、覚えて、る……?」
「……だれだ?」
 いつもの輝きがない不思議そうな彼の瞳に、絶望と同時に怒りが湧いた。
 一番忘れて欲しくないあなたに、忘れられた私。
 絶対に思い出させてやる。
 どんな手を使っても。
 隣で驚いている彼の親友の手をひっぱりこう告げた。
「あなたは私の元カレでこっちは今カレよ」
 それから、ヘンテコな嘘つき生活が始まった。

 

 

間

 

 

「やめてくれ! 危ないっ」
 引きつった声が暗い室内に木霊する。
「なんで、こんな……」
「前もあったからよ」
「え」
「覚えてない?」
 慎夜は不思議そうに私の手にあるものと私を凝視する。私は必死で震えそうになる手をもう片方の手で強く押さえ極力冷静な声を繕う。
「前にもこんなことあったじゃない。真っ暗な中、これ突きつけられて震えていた……」
「う、嘘だ」
 そう、嘘。実際突きつけられたのは私。突きつけたのは違う人。
 そして助けてくれたのは彼。
 目の前で揺れる、灯火がゆらゆらと揺れる。
 こんな小さなもので足がすくんでしまう。今すぐにでも放り投げてしまいたい。
 何度も何度も震える指に力を入れてやっとの思いで火をともした蝋燭。簡単に消せない。固まっている彼の目の前にそれをかざす。
「ねぇ……、本当に思い出さないの?」
 火から身体を守るように両手を前にクロスしながら、慎夜は顔を縦に勢いよく振る。
 怯えたままだ。
 なんだか、自分が酷く醜い人間に思えてきた。
 記憶のない愛しい人に、自分にでさえ強烈な記憶の一部を再現するなんて。
 時間がなくて焦って必死になって、躍起になって、酷いことしている。
 ダメだ。これじゃあダメ。
 力が抜けて床に手がつく。
「あ」
 蝋燭を持っていたんだった。燭台を確認しようとしたら、手が伸びてきた。
 ゆっくりと私の手からそれを取り上げる。
『君が火傷する』
 彼の背後に一瞬、過去の燃え盛る炎が映った。
「大丈夫か?」
「……だいじょうぶよ」
 火を消して電気を付けた彼は蒼白になっている私を心配そうに覗き込むが、私はそれを振り払って部屋を出た。呆然としている彼を残して。

 

 

間

 

 

 また徒に数日が消えてしまった。
 今日は真っ暗な室内に一日中閉じ込めてみた。覚えているか問いかけてみると、嘘だ、信じられないと怯えた声で否定した。
 煉矢君が様子を見に来るまで彼は開けてくれと叫び続け、私は必死に耳を塞いでいた。耳に残る悲鳴があの日と重なって。
 そう、これも私が体験したことで彼が体験したことじゃない。
 なのに私はそうしてしまった。
 その時に感じた私の気持ちを知って欲しくて。絶望の中でも救いがあったことに。
 それが私にとって慎夜だということを。 
 親なしってだけでいじめられていた私を庇って冷たい水被ってくれたことも、裁縫が得意じゃないのに破れてしまった私のお気に入りのぬいぐるみを縫って直してくれたのも、慎夜と私の関係に嫉妬した女が、蝋燭で脅したと時庇ってくれたのも、倉庫に閉じ込められて怖くて泣いていた私を助けてくれたのもあなたなのに。
 どうして助けてくれるの?
 そう問いた私にたった一言「ほっとけなかった」と。嬉しかった。気にかける人などいないと、ずっと孤独を歩むんだと思い込んでいた私を、見つけてくれた唯一の人。
 あなたが思い出さないと、私はまた一人になってしまう。彼と過ごした暖かさを知ってしまった今、再び孤独に戻るのは、いや。
 怖いの。
 嫌なのに。
 焦るばかりで彼に酷いことをしてしまって、増々彼との距離が遠退いてしまった。
『これ以上、あいつを追いつめると愛想つかされちまうぞ』
 彼を宥めた後、そう言い残して帰っていった煉矢君のいった通りになった。
 ここ数日慎夜は顔を合わせただけで俯いてすぐ離れていく。今日なんて一言も喋ってくれなかった。
 また私に笑いかけて欲しいだけ。
 彼に貰った優しさを返すことが一度も出来なかった。
 酷い女だ。
 溜らなくなって枕に顔を埋める。
 隣にいる彼に知られたくなくて。
 記憶を無くした慎夜は、当初はダブルベッドで寝るのをひどく嫌がっていたけど、今はもう慣れて寝息をたてている。
 事故に遭う前に私と別れて部屋がそのままだったという苦しい言い訳をしてでも、一緒に寝たかった。
 私が一人で寝れないから。
 もう弱くないって胸を張って慎夜に見せつけたいのにやはり夜は怖くて、寂しくて。
 明日、そう明日になればそれも終わる。終わってしまう。
 渦巻いた胸の内を押し殺しながら、ここ数週間で疲弊した私の精神は次第に眠りへ落ちていく。
 優しく頭をなでられる懐かしい夢を見た。
 朝起きたらすごい寝癖にみっともない顔が鏡に映って渇いた笑いしか出てこなかった。

 

 

間

 

 

 慎夜が記憶を無くして一ヶ月。
 長い長い一ヶ月だった。
 社会的にも私の精神的にもこれが限界。
「はい、これ」
「え……」
 慎夜に渡したのは彼の両親の住所。
「あなたは明日から両親のとこで療養するの。連絡済みよ」
 一ヶ月、彼の記憶が戻らなかったら彼と別れて、両親の元へ返す。
 それが干渉しないかわりの約束。
 元々私との付き合いに良い顔をしていなかった彼らにとっては良い提案だったのだろう二つ返事で了承してくれた。
 どこへいっても嫌われる性格だ。ため息しかでてこない。
 だからこれで良かったんだ。
 私のことなんて酷い女だったと思ってくれればそれでいい。
「荷物、まとめといたから今からここをでれば今日中にはつくでしょ。はいチケット」
 優の両親がいる場所は隣の県のちょっと奥まった場所だから、早めに出ないと日が暮れてしまう。
「でも、会社……」
「それは大丈夫。私のカレ、煉矢があんたの同僚だっていったでしょう? 上司に長期休暇申請してくれているわ。落ち着いたらまた職場復帰してくれといっていたそうよ」
 その申請書は鞄の中に入っているから。そう伝えて鞄を彼の前に置く。
「さあ着替えて。駅まで送るから」
 それでもう永遠にさよならだから、そう心の中で呟く。
 でも、彼は意外な問いかけをしてきた。
「君の彼氏……」
「煉矢のこと?」
「そう、煉矢は君の彼氏じゃないだろ?」
「……は?」
 これ、といって彼が取り出したのは長めのストラップが特徴の煉矢君の携帯電話。先日忘れていったようだ。
「君がお風呂に入っている時に電話がきて、見たらマイハニーって着信画面に映っていた」
 私はあの馬鹿に脳内で盛大に悪態をついた。忘れていくなよ。もしや未だに携帯落としたことに気付いてないのか。
 以前も似たようなことがあって、本当の彼女の提案で首から下げるようになったというのに、これでは意味が無い。
「なぁ、もし俺がこのマンションをでて実家に戻ったら、君はどうするんだ」
「……どうもしないわよ。このままよ」
 嘘。明日にはこのマンションを引き払って、遠くの場所へいくつもり。
 そのことを告げるつもりはないから言わない。
 なのに、なぜか彼は鋭い質問を続けた。
「ここを出て行く――なんてことはないよな?」
「な、ないわよ、どうしてそんなことを訊くのよ」
「会いにきても?」
「は?」
「だって、恋人どうしなんだろう?」
「元よ。別れたのよ」
 そうよ、永遠に別れるのよ。なのになんで今更。酷いことしかしてないのに。
 記憶が無いくせに心配なんてしないでよ。
 辛くなる。
「早く、着替えなさいよ。電車の時間過ぎちゃうわ……っ」
 立ち上がって部屋へ逃げようとした私の腕は強い力で引き戻される。
「……」
「な、なによ」
「行かない」
「え?」
「両親の元へは帰らない。ここにいる」
「は、な、なんでよ。あなたの両親心配しているわよ」
「関係ない」
「か、関係ないって……」
 私は唖然とすると同時に焦りを覚える。両親と約束したのだ。記憶が戻らなかったら別れるって。反故できる訳がない。
「絶対に行かない。煉矢が新しい彼氏じゃないなら、俺がここにいても迷惑じゃないだろ。それに俺が出て行ったら……君がここに留まる理由、なくなるだろ?」
「あるわよ。職場から近いもの」
「嘘だ。ならなんで退職届を出した」
「えっ」
 そらし続けた視線を彼にあわせてしまった。この一ヶ月見ることが無かった彼の怒りを含んだ眼差しがそこにはあった。
 思わず竦んでしまった。
 彼が私に怒ることなど滅多に無いからだ。
 いつだって怒るときは……。
「君は不器用すぎる」
「……」
「自分のトラウマをふるえてまで掘り起こしてわざと嫌われようとしたり、枕元で必死に泣かないように堪えて……記憶がなくてもすぐわかった。なくした記憶がとても大切なものだったって」
 机越しの彼が私の足下へ近づいてくる。俯いて下唇を噛み締めている私を覗き込むように座った。
 真っ直ぐな瞳。
 ああ、彼だ。失ってしまった他人との記憶がなくても彼は彼だった。きっと私が知らない間に色々彼なりに捜していたのだ、私が隠してしまった私との思い出になるものを。
「一つわからなかったのはなぜ、俺の記憶を必死に取り戻そうと焦っているのか。その理由が今分かったよ。本当に君は……」
 ――頑固で優しすぎる。
 彼は盛大にため息をつきながら、そう告げた。
 その姿になんだか悔しくなって、折角の温かい手を振りほどいてしまった。
 胸に穴があいた気がしたが、今更、遅いのだ。だって彼と一緒にいることを誰も祝福はしてくれないのだ。
 優しいのは彼の方だ。
 だからこんな酷い女じゃなくて、もっと違う相手を捜せばいいのに……だけど慎夜は私の手を再び握る。今度は簡単に離さないとでもいうように。
「君がほっとけないんだ」
 あの時と同じ言葉。
 あの時と……。
 この一ヶ月必死に我慢していたものが目から溢れて彼の頬に落ちていく。
 彼は微笑んでいる。
 馬鹿よ。
 あなたは大馬鹿よ。
 盛大に悪態をつきながらも、私は彼の手を握り返した。
 もう二度と離したくない。
 好き。大好き。
 だから独りにしないで。
 もう、どこにも行かないで。
 私の名前を呼んで。
 泣きじゃくる私を慎夜は力強く抱きしめる。
「愛しているよ、陽華」

 

了 
後日談〜夜は華を愛でる〜に続く→

 
2014/11/15 彩真 創
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