「さあ、今度こそ文句は言わせないわよ!」
迫力ある声と同時に、けたたましい音が机から発せられる。積み上げられた資料が余韻とともに崩れ落ちた。
「ここにサインして」
「……あのな、普通の人はここで、こんなことはしないぞ」
「アキがいつもいつも、はぐらかすからじゃないっ」
「落ち着け、つばめ」
「これが落ち着いてられる状況っ!!」
室内を響かせるつばめの声にオフィスの同僚達がなんだなんだと、注目し始める。
そう、ここは会社の中。
アキこと秋影(あきかげ)は、これはまずいと判断し、今にもひっかきそうなつばめのセーラー服の襟を掴み、席を外すことにした。
とりあえず、昼下がりの屋上へと移動した二人。
すぐに、つばめは秋影の目前に紙を突きつけ、一言。
「サインして」
「授業はどうした」
「今日は短縮授業なの。サインして」
「どうして、今なんだ。後でもいいだろう」
秋影は目線をそらしながら問う。理由はわかっているが、それでも、気づかない振りをする。
つばめはぶっきらぼうに説明する。
「私、今日で十六になった」
「そうだな。おめでとう」
軽く流す。
「おめでとうはいいの。これにサインしてくれれば」
さらに目の前へと、突きつけられるそれは、婚約届けの書類。
「わたし、十二年と三ヶ月待ったの」
ずっと、ずっと待ったの。
だから、早くサインして。
目で訴えてくるつばめに秋影はたじろぐ。
彼は、まだ幼さの残る少女のこの要求に今すぐに応えていいものか、判断が付かないのだった。
実際彼女はこの春、高校に入学したばかり、逆に自分は三十代をゆうに越える年だ。言い換えれば、四十代に近い年なのだ。
「俺は、お前の世代からしてみて、おっさんだぞ……」
ようやく絞り出して、出た言葉は妙にもの悲しい。
「わたしにしてみてみれば、王子様よ」
きっぱりとシンデレラシンドローム宣言するつばめに、脱力する秋影。
「どこで、育て方間違えたんだ…………」
「失礼ねっ。当時の私から見れば、親を亡くし、親戚に嫌厭(けんえん)され、果ては養護施設に入れられそうになり、一人寂しく泣いていた私を、華麗に参上して奪っていったアキの行動を、王子様と呼ばずになんと言えばいいの?」
「や、参上はしてないし、奪ってない、奪ってない」
脚色された、真実ほどむごいものはない。
事実はこうである。
秋影が参列に遅れてやってきたときに、柱の影で独りぼっちで泣いているつばめが、ストライクに入り、後日、引き取りを申し出たわけである。
ようは、秋影が、犯罪すれすれのロリコンだったことが、この事態を招いた原因のようだ。
教育以前の問題だ。
「それに、一緒に住むようになってから、毎日欠かさず、おはようとお休みのキスだってしてくれるし、デートしようって言ったら、デートしてくれたし、ちゃんと結婚してくれるって、約束してくれたじゃないっ」
どうやら、教育にも問題が多々あるようだ。
「いや、キスは亡くなった両親としていたっていったからしているだけで、デートも遊びに行きたいのかと、思ったから。け、結婚は小さい頃の話で……」
慌てて弁解する姿は滑稽以外、言いようがない。そもそも今もおはようのキスを続けている時点でアウトだ。
「アキのような美形な男性と腕組んで歩いてる姿、どうみても恋人同士だと、みんな思うんだよ」
「事実から見ると援交になるな…………」
外見がまだ二十代に見える秋影だが、実際はつばめとは二倍も年が離れている。
スーツ姿と女子高校生が腕組んでいる姿は、一般的には親子か援交の二択しかない。
秋影はつばめにくっつかれること自体、嫌いなわけではない。むしろ、大いに喜んでいる。
一目見たときから、全てにおいてつばめのことが好きになってしまった。
十数年、一緒に暮らしてきてもそれは変わらない。
しかし、歳の差とつばめの未来、両方の現実を突きつけられると躊躇してしまうのだ。
つばめはまだ、若い。
自分以外の恋に目覚めるかもしれない。
その時が来たら、つばめの気持ちを優先し、自分は引き下がるのだろう。
しかしそれは、自分という存在はただの父親に成り下がってしまう。
それが怖かった。
手放したくないのは、秋影も一緒だったのだ。
沈黙を女的感でつばめはぶち壊す。
「わたし、他の男と恋なんてしないわよ、絶対っ」
「…………」
「だから、アキも他の女に恋なんてしないって約束してほしいのっ」
「へ?」
突然、何を言い出すのか、理解できなかった秋影。その表情を見て、つばめは、ほら、ぜんぜん気づいてない、と語る。
「アキ。会社の女性からして、ターゲットの的になっているんだよ。三十代に見えないくらいかっこいい容姿、趣味のスポーツジム通いで鍛えられたたくましさ。私の調査では今のところ五、六人の女がアキにアプローチしているのっ」
いつ調べたのか。しかし、秋影はそんなことを通り越して、衝撃的な事実をしったような表情をしていた。
「……知らなかった。つばめ以外みんなこんにゃくに見えていたから」
基本、同世代前後の女性に興味がわかない秋影は、誘いがあってもこんにゃくと話すつもりはないので、断り続けて早幾年。
それが、逆にクールと言うことで、女性を燃え上がらせていることに気づいてなかったのだ。
ちなみに、こんにゃくは秋影が嫌いな食べ物である。
ふと見ると、つばめがきらきらした瞳で、自分を見ていることに気づく。
「どうした?」
「今の言葉、もう一回いって」
「? どうした?」
「その前」
「前? つばめ以外の女性はこんにゃくに見える?」
「それ!」
押し倒さんばかりの勢いで、抱きついてきた少女をなんとか支えて、ふと秋影は自分の言葉の意味を理解した。
逆説で考えるとつばめだけしか好きになれない、となる。
彼は今更ながら、告白していることに気づき、慌てふためく三十代。
「いや、あのっ」
「私の気持ち、絶対、親子の愛情として片づけないで……」
秋影の胸に埋めている少女は、震えた声でそう告げた。
ずっと、先へ行く秋影を追いかけていたのだ。自分より大人である彼がいつ、つばめの側を離れてしまうのが不安で不安でたまらなかった。
「アキ、大好き」
十数年間、ずっと募らせた思いの一言。
「反則だろ。それは……」
本当は自分から言いたかった秋影。つばめが、高校卒業した時にプロポーズを申し込もうと考えていたのだが、高校入学してすぐに、まさかの逆プロポーズ。
小さな背中を優しく包み込み、吐息がかかるくらいつばめの耳の近くで秋影は囁く。
「一応聞くが、卒業まで待つつもりは?」
「ない!!」
にこやかに宣言するその笑顔に、秋影は不敵な笑みで返す。
「責任はとれないからな」
「? なんの?」
つぶらな瞳の問いかけに甘い口づけで返す。
彼の数十年間押し殺した感情が、一気に溢れ出すのがわかる。
息があがっているつばめに、ずっと言いたかった言葉を告げた。
「好きだ、つばめ。結婚してくれ」
その数ヶ月後、二人は正式に結ばれたのだった。