暗く冷たい夜風が吹き抜ける家々。
明かりは灯らず、暗いまま。
一人の男は、暗い夜道を難なく歩く。
狭い路地を曲がる。
そこには、一つの瓦葺屋根の家があった。
草が生い茂り、たくさんの砂利が吹き荒れる。
黒い影は玄関に置いてあるいくつかの小瓶を回収する。
そして、男は迷いもなくそこへ入り、奥の間へ……。
「あぁ、きれいだ……」
開け放たれた襖から、きらきらと沈んでいく月の雫にあてられた、温子に感嘆の吐息を漏らす。
その月明かりへと腰を下ろす男、ドープ。すると、あつこがうっすらと目を開ける。
「むらさき、くん……」
「心配なく。全て片付いたよ。あっちゃんの要望通りに」
やんわり告げる、ドープ。そして彼はポケットバックから紫の琥珀でできた香炉を取り出す。
「きみひろは?」
「……よい夢を見ながら帰路についているころだと思うよ。明日にはあっちゃんのこと曖昧にしか残らない」
いささか、いやかなり嘘も方便なことを語る、ドープ。
――数時間前の出来事にさかのぼる。
『なんでこんなに強いのに、ばっちゃんを助けなかったんだ!』
倉庫の外。隠遁な室内の中と比べて、外は気持ちいい空気だ。深呼吸しながら伸びをするドープ。
きみひろは今だ縛り付けられたまま、文句を言っていた。
『おい、聞いてんのか!? それに早く外せよ、これ!』
『外すと殴られるとわかっているのに、外す馬鹿はいないよ。君にはとてもお似合いだ』
『ふざけんなよ! 人殺し! 鬼! 悪魔』
外に出るまで放心していたきみひろは、たまっていた言葉を吐き続ける。
『君みたいな馬鹿に言われてもね……。それに、君も人殺しだ』
『な!?』
耳を疑うきみひろに、詰め寄るドープ。その瞳は暗く冷たい。
『君は、自分の欲のためにあっちゃんを利用した。そうだろう? そして自分の危険が迫ると他に助けを求め、彼女を見捨てた。裏切られたと罵るだけ。実に自分本位な考え方だ』
『…ち……ちがうっ…!』
ドープの発言に思わず反論するきみひろ。しかしドープは更なる追い討ちをかける。
『何が違うとでも? 君は自己欲を誇示する親を嫌っていた。なぜなら自分を見てくれないから。そして君の祖母、あっちゃんにそれを求めた。実に子供らしい発想だ。何もできない無力でタチの悪いガキだね』
『なんだよ! それでも、俺はばっちゃんが大好きだったんだぞ! だから頑張って看病したんだ……!』
『はっ。看病? 君は怖かっただけだろう? 祖母が死んだら、自分を見てくれる者がいなくなることが。だからどうにかしようと僕を巻き込んだ。彼女を長生きさせるため、そして邪魔な奴らを排除させようとするために。……本当に彼女が好きだったら、君は最後まで彼女の言葉を信じるはずだ。けど、君は思っただろう? あの時』
――ばっちゃんのうそつき!
香炉に落とされそうになった時、そうきみひろは思った。温子の言葉を否定した、何も信じていなかったのだった。
温子の安否より自分を優先したのだった……。
『それで君は自分の祖母が大好きだとぬかす。少し脅されたぐらいで命乞いをし、果ては暴言を吐く始末。わかっただろう? 君の行いは全て中途半端な餓鬼の我が儘だってことが』
一気にまくしたてるドープ。端から見ていると大人気なさすぎる。
しかし、ドープは餓鬼であろうがなんだろうが容赦しない。
自分に必要以上に使わせた者は、誰であろうと何十倍にも返す主義だった。
うなだれるきみひろ。
自分本位だと真っ正面からいわれ、それが本当のことだとわかったときのどうしようもなさに人は、何を思うのか。それが子供ならなおさら、疑問に思うところだった。
ドープは全く気にしないが……。
『さて、僕はもうこれ以上君に構ってやれないんでね。大分時間をロスした』
ジャケットの裏に手を当て何かを捜すドープ。
『なぁ』
『君とこれ以上会話する気はないよ』
『……ばっちゃんは、生きてるのか……?』
——認証シマス
ジャケットからドープは手平より一回り大きい、球形の機械を取り出し、底にある四角いガラスに指をあてる。
すると、ピピッと機械音が鳴り、だんだんと大きく変形していく。
もう一度機械音がなった頃には、馬はいない小さな馬車のような、形をした移動乗り物に変形していた。
『な、なんだこれ!? …………あ、あれ……?』
初めて見る機器に驚くきみひろだが、よく見ようとすると視界がぼやけてくる。
必死に抗おうとする彼のロープをほどきながら、ドープは囁く。
『さて、君は今日のこと、君の祖母のこと、明日になったら忘れるよ。もちろん僕のことも……。平凡な自己欲の社会へ帰るんだ。君はそちらの方がお似合いだよ。中途半端は目立つからね』
『…………』
返事がないきみひろ。すでに夢の中。
遠慮なく彼を鷲掴みし、馬車のようなものへ放り投げるドープ。
『そうだね、もし君がそれに抗えるようになったら…………』
——ブロロロロロロロロ
それ以上は馬車が走り出し、その音でかき消されたのだった……。
「むらさき君のことだから、叱ったんじゃないかな?」
「叱るよりひどいことを言ったかもね。僕はそんなに甘くないから」
図星もさらりと受け止め、堂々と暴露する。
「まぁ、明日になったら全て忘れているさ」
香炉にいくつかの粉をまきながら、ドープは肩をすくめた。
「さぁ、準備はできた。今度は僕のお願いを聞いてくれる番だよ、あっちゃん」
弱々しく、だけどはっきりと微笑む温子。それを確認し、香を焚くドープ。
忽ち、部屋は匂いで充満する。
「あぁ、懐かしい匂いがするね……。昔じっちゃんと育てていたひまわり、なずな、カボチャの花の匂いもする…………なつかしいねぇ」
“懐古の香”
「君用に焚いた香だ。僕のささやかなプレゼント」
温子はドープの顔を見ようとしたが、月明かりでわからなかった。
匂いによって様々な昔を思い出す、温子。
泣いた記憶。
嬉しい記憶。
幸せな記憶。
どれをとっても、温子にとって大切な思い出だった。
ゆっくりと目を閉じる。
「むらさきくん。……ありがとう」
「どういたしまして。あっちゃん」
赤紫の明かりが灯る頃
一人の男は、ずっと静かに眠っている女性の顔をいつまでも見ていた。
「……やっぱり、きれいだね。君の死に顔は……」
安らかに眠っている温子。
憂いもない、苦しみもない、自然体のまま。
「お代、確かに受け取ったよ」
頬に口づけをし、彼はその場を去ったのだった…………。