ざく切りのサラダをかじりながら、エルベリトは正面の対処に困っていた。
向かいに座っているのはもちろんのこと仁美だ。
しかし、先ほどまで暴飲暴食、ヤケ食い、ヤケ酒の止めるに止めれない勢いに、ただ茫然としているしかいなかったのだった。
今では酔いつぶれて机に突っ伏している状態なのだが、声をかけれる空気ではなかった。
最初にあった時のしゃきっとした姿は見る影もなく、髪を振り乱して、何か唸っていた。
止める頃合いがわからず、今まで見ているしかなかった。
正直、彼女がなぜこんなに怒っているのかわからないエルベリト。彼女のこんな姿を見たら、尋ねていいのかさえも躊躇してしまう。
ただでさえ親友のマティム以外とは会話しない。
他者との距離感がわからないのだ。
「あの、お水、飲みますか」
輝く魂。
それが、彼を動かす。
「…………どーも」
仁美は受け取った水を一気に飲み干し、本日、何度目かのため息をつく。
再び沈黙が落ちたと思ったら、今度は彼女が口を開いた。
「ねぇ、何か会話しなさいよ」
「な、なにかって……」
「なんでもいいわよ。あんたのことでもいいわ。歳いくつ?」
「歳……。今年で、三十です」
設定上は。
「へぇ、あたしより三歳上……………はぁ?!」
空のコップを手のひらで転がしながら、聞いていた彼女は、驚きのあまりそれを机の上に叩き付け、目の前の少年を注視する。
「こんな細身で、低身長で童顔があたしより年上!? 嘘でしょ!?」
それ以上の年齢なのだが、さすがにそこまで言えないので曖昧に微笑むエルベリト。
どうやら彼の一族は歳の取り方も人とは違うようなのだ。
「仕事は? そのなりでなにしてんのよ」
仁美はデキあがっているのか、それか元からの性格なのか、かなりきつめの口調になっている。
しかし、そんなことに気にしないエルベリトは素直に答える。
「通訳です」
「通訳……なるほどね。あんたバイリンガルなの? 英語の他に何かしゃべれるの?」
「フランス語とイタリア語を多少」
「へぇ! じゃあ、今度あたしの通訳になってよ」
「どこか旅行に?」
「旅行じゃないわ。…………あたし、これでもデザイナーなの。たくさん色々な世界に行って修行したいのよ。夢だったんだから………………なによ、その顔」
「え?」
「どうしてそこで泣くのよっ。笑うんじゃなく、泣くって、あんた本当に変よね」
エルベリトはズキズキと虚しく痛む心臓を、必死で落ち着かせようとするが、できない。
それに呼応するかのように、涙が溢れてくる。
叶わないと知ってしまったからか?
必死で涙を拭うが、美しさを増す目の前の輝きに、心の底から歓喜し、同時に哀感に襲われ、エルベリトの雫は止まらない。
「ホント、失礼な子ね。あ、違うか。私より年上なんだよね。全然そんな風に見えないけど」
仁美は棚に置いてあるティッシュをとり、エルベリトの顔に押し付けながら苦笑する。
「あんたみたいに、わたしも泣けたらよかったのになぁ……」
「………………」
「ある少女の家は、結構な名家の家系だったの」
ぼつりと零れた昔話。
「今時、着物で暮らしてたんだから、本当に風習にうるさい家だったんだと思う。あの頃は当たり前すぎたし、体も弱かったから、外の世界なんて…………なぁんにも知らなかった。世間知らずなお嬢さんだった」
自重気味に語る。
幼い仁美は自分の行い全てが許されるものだと、妄信して日々を過ごしていた。自分にかけてくれる言葉全てが、真実だと思うほどに。
「…………彼女は、ね。高校の時、恋をしてしまったのよ。同級生に。好きだと言われて嬉しかった。許してくれると思った。けれど違った」
今までに見たことのない、父親の怒り、母親の嘆き。仁美には彼らの言葉がわからなかった。なぜ否定するのか。
どうしてはたかれるほど怒られなければいけないのか。
許嫁がいるのに、なんてことをしているんだ、と未来のレールを告げられなければいけないのか。
何もできないくせにと罵倒する、親に対する理不尽さと、彼が好きだという想いが、仁美を動かした。
「……ほんと、彼のことが好きだったのよ」
震える手で酒をつぎながら、仁美はあの時のことを思い出す。
ばかだったな、と、口の中で呟く。
「それだけのために、彼女は家を飛び出して彼の元に行ったのよ」
もう家には帰らない!
そう家族に言い残して。
「仁美さん…………」
それ以上言わない方がいい。
エルベリトはその言葉を必死で堪えた。
仁美自身がずっと、溜め続けた思い。誰かに話すことで、彼女が再び傷つくことになっても、戻らない過去だ。全部吐き出した方がいい。
彼は黙って続きを待つ。
両の手を握りしめていることに気付かずに。
「そしたら、彼、なんて言ったと思う? ふふ、『金のない奴には用はない』って…………。笑っちゃうでしょう? 結局彼も、その子を愛していたんじゃなくて、お金を愛していたのよ。心に決めた相手のために、馬鹿な女は全て失ったのよ」
私という跡取りが欲しかった両親。
家の遺産が欲しかった彼。
結局、仁美の信じた世界は、偽りだったのだ。
頭が痛いくらい、響いてくるのを無視して、仁美は続ける。
「そのことに気付いた少女が次に何したと思う? ぶち切れてね。皆を殴って、一人で生きていくことにしたってわけ」
全て一から一人でやる、そう決めてずっと突っ走ってきた。
高校を中退して、仁美は唯一好きだったデザインの勉強をひたすらした。その中でも、元名家の娘というレッテルがとれない時もあった。
真逆の生活感に苦労した日々もあった。
それでも、ひたすら突き進んだ。信じられるものは自分の腕しかなかったから。
「……ようやく、ちょっとだけどデザイナーとして認められ始めたの。だから思い切って、中古だけど家を買ってみたのよ。『何もできない私、家を買いました』って、あいつらに写真つきで送ってやったの」
どう、すごいでしょ?
満足げに微笑む彼女に対して、エルベリトは首を振る。
「なによ、また泣いて。失礼ねっ」
「……恨んでいるのですか?」
その人達を。
「恨んでいるに決まってるじゃない。信じてたのにっ、ただ、私という便利な道具が欲しかっただけだなんて。でも、感謝してるわ。そのおかげで私は、一人で立っていけるようになったんだもの。今の生活に満足しているわ」
(ずっと、一人だけどね…………)
顔を伏せ、歪んだ笑み。
もう誰を信じたらいいのか、わからない。仁美は近づくもの全てが騙す人に見えるのだ。
捨てた過去が、ずっと引きずる。
「では、僕は?」
「は?」
「仁美さんは僕のことをどう思っているのですか」
震えた声でしかし、はっきり問うエルベリト。
最初、仁美はその意味がわからなかったので、机に顎を乗せながらも、彼を見る。
あぁ。
納得する。
愚痴をこぼしている時点で、彼を信用していると肯定したいるようだと。
「あ〜〜、あなた、ひょっとして人じゃなかったり」
冗談で仁美は投げた言葉だが、少なからずエルベリトはわずかに動揺したが、必死で隠した。
そんな様子を、反応に困っていると勘違いしたのか、仁美はクスクスと笑う。
「冗談よ、冗談。なんでか知らないけどね。あんた天然で馬鹿っぽいし、今までにいないタイプだから、じゃない?」
「はぁ……」
ストレートなけなし言葉でしかないのだが、おそらく仁美自身と似たようなところがあったのかもしれない。
しかし、それを知らないエルベリトは、戸惑うだけ。
ただ、仁美の所々の言葉にひっかかる。
――おそらく、仁美さんは…………。
思いたった時、エルベリトは異変に気付く。
「どうしたんですか! 仁美さんっ」
気が抜けたのか、今まで微かに違和感のあった頭痛が激しさを増したのを仁美は感じた。
駆け寄ったエルベリトを制す。
「へ……いき。ちょっと飲み過ぎた、みたい…………」
「いえ、でも、先程も、頭を押さえていましたよね?」
玄関でも料理の最中でも、時々、立ち止まり頭を押さえていたのを、見かけた。
何か、違和感があるのは確かだ。
「最近、疲れてい……る、所為よ。…………たいしたこと」
ないわ。
掠れ気味で答える。
どう見ても、彼女の状態は以上なのに、必死で平気だと言い張るのはなぜなのか。
「病院へ行かないのですか?」
「行けるわけないでしょ! 行ったらパパ達に連絡いっちゃうじゃない」
――あぁ、そうか。
「仁美さんは、本当は会いたいんじゃないのですか? ご両親に」
「は?」
冗談言わないでよ。何を根拠にそんなこと言うのよ! そう睨みつける彼女の瞳を真っすぐに朱色の瞳は見つめ返す。
「本当に会いたくなかったのなら、わざわざ送りつけませんよ。過去を引きずって、ずっと一人きりなのは、あなたがご両親や彼の言葉に傷ついているからです」
傷ついているということは、まだその人達のことが好きだから。
今の生活に満足しているのなら、なぜ一人で過ごすのか。どうでもいいと割り切った過去なら、違う人生を歩んでいるはずだ。
「本当に、全部嘘だったのでしょうか? その人達と過ごした日々は。その時のあなたは、幸せではなかったのですか?」
「だから、それは私が馬鹿だったから……」
「本当に? そう言い切れますか?」
「……」
「人は本当に楽しくないと心から笑うことなんてできません。昔の仁美さんは、その人達と過ごしていた時、自然と笑い合っていたのでしょう?」
全てが偽りと思い込めば、確かに楽だ。その中の真実も偽物にできる。
けれど、自分の心を騙し続けることは、そんなに長く続かない。
「やめてよっ」
これ以上、混乱させないで!
力の限り仁美はエルベリトの頬を叩くが、今度は耐えた彼は、震えた肩を掴んで彼女を捕える。
仁美は怖いと思った。
頭の中で鳴り続ける音の所為で、目の前の真剣な表情を払いのけることができない。
静かに燃える朱色の瞳が、自分の心を覗いている気がして、堪えられなかった。
これ以上、自分の気持ちを知りたくなかったのだ。
今までの自分が壊れそうで……。
「少なくともご両親は、あなたを捜しています。連れ戻すかはわかりませんが、それでも彼らが仁美さんに会いたがっていることはわかります」
「なんでよっ、そんなこと、わかるわけないじゃない……」
「無事だけを知りたいなら、送った写真で十分です。あなたのことをどうでもいいと思っているなら、捜索願なんてだしていませんよ」
「…………」
全部嘘だと信じたら、簡単に捨てることができた。
だから、仁美は捨てた。
残りのささやかな思い出も捨て去って。
両親の本心もわからずに。
考えなかった。
考えたら、不安でたまらないから………………。
「……………もしも、連れ戻すだけだとしたら、嫌じゃない。今度こそ誰も信じたくなくなる……」
傷つけられた分、臆病になり、必死に強情になろうとした。
エルベリトのマントを握りしめる。震えながら。
「……………また、いらないって、言われたら、どうやって立ち直れ、っていうのよ……」
「仁美さんは優しいから、バカヤローって叫んでその人達に目覚めのパンチをくらわせるでしょうね」
「なによ、それ…………」
震える声で笑う。
床に零れる涙。
ずっと仁美が耐えていたもの。
ひたすら仁美はエルベリトの横で泣いた。
今度は痛みも耐えなかった。
痛い。
悲しい。
逢いたい……。
「今だけでも僕の言葉を信じて、病院へ行きませんか?」
「…………」
「人は信じられないのでしょう? なら、人じゃない僕の言葉は信じられるはずです」
泣きはらした目で、隣の青年を見た。なぜだか、彼が最初の頃より大人びているような気がした。
気のせいか、髪の色も違って見える。
見たことのない、綺麗な淡い葵の色を……。
(あなた、人間じゃないの……?)
問いかけようとしても、声が出ない。
代わりにうなずく彼女を抱き上げ、エルベリトは何かを呼ぶ。
その声に耳を傾けながら、仁美は意識を失ったのだった。