「ただいま」
薄暗い廊下。獅童は明かりを点けずになれた様子で歩く。
どの部屋も静かで彼の他には誰もいないかのようだった。
構わずに彼は鞄と、濡れた袋を持ち、階段横にあるドアへと向かう。
そこはほんの少し空いていた。
「ただいま」
もう一度、今度はそのドアに向かって言う。
暗くてよく見えないが、そのドアの隙間から誰かがのぞいていた。
「………おかえり………」
小さな声が聞こえた。しかし、部屋から出てくる様子はない。
「苑、お昼は食べたか?」
そんなことを気にせずに、獅童は部屋の中の少女、苑に話しかける。
その声は、学校と違い穏やかな声だ。
本人は気付いていないが、漠辺りが聞いたらすぐにわかる微妙な違いだった。
暗さになれてきた目に苑のうなずく様子が見える。
その少女の両手には大きな白いウサギのぬいぐるみがあった。
「そうか。夕食、何か食べたいものあるか?」
聞いても「ない」と答えるのは知っているが、いつものごとく聞く獅童。
苑と一緒に暮らして五年あまり過ぎたが、未だに彼女の好きなものが、よくわからなかった。
ずっと家にいる彼女。特に獅童は、外にでることを強要することはしなかった。
彼女にも自分の時間というものが、あるとしっているから。
そしていつものように「ない」と返ってきた。
「…………」
「……? あぁ、これか、水たまりを避け損ねただけだ」
帰りの特売で買った食材の入ったスーパーの袋とそれを持つ袖に、苑の視線があるのに気付き苦笑する。二つとも濡れていたからだ。
スーパーによった帰りに、トラックが水たまりをはね、躱しきれなかった。ただそれだけのこと。
それだけですんだ。
「たいしたことは起こっていない」
片膝をつき、優しく扉越しに苑の頭を撫でる。
無表情でも彼女が心配している空気が伝わってくる。
苑は獅童の特異な体質を知って受け止めて心配してくれる数少ない理解者。
学校の誰も知らない。
漠や潤一郎にも秘密。
亡くなった両親さえ知らずに死んだ。
いや、自分が両親を殺した。
苑の両親をも巻き添えにして……。
彼は、自分を含めた周囲を、プラスにもマイナスにも変える力を持っていた。
しかし、限りがあり、常に一定を保たねばならなかった。それを計ることが出来るのは、曾祖父から受け継いだ、赤と黒の液体が入った水晶のペンダントだった。
赤の液体が多ければ、プラス、つまり自分にとって良い方向に周囲の状況が変わる。好きな時に使えるが、黒が多かった場合は逆に、悪い状況に出会わなければいけなかった。
それも、獅童が願えば、起こる。
状況の大きさも、多少操ることが出来た。
使うと減り、自然とまた増える。状況をよくすればするほど、赤はその分たくさん減り、逆もまた然りだった。
それはいつ増えるかわからない。だから、赤の液体は普段あまり使わない。さらに、その水晶に黒の液体がいっぱいになると、最悪な不幸を招くこととなる。
曾祖父も、獅童と同じ体質を持っていた。
そして周囲には秘密で、幼い獅童にこの水晶を渡した。
その時に何度も、『常に黒い方の水を消費しときなさい』と言い聞かせられていたが、皓彗はまだ幼い子供だったため、十分に理解出来ずに大きな災害を起こしてしまったのだった……。
「……わるくない……」
獅童の袖をぎゅっと握りしめながら、苑は開いている左目で真っすぐ彼を見つめる。
長い前髪が見えない右目を隠している。
苑は獅童が起こしたあの大きな事故によって、彼をかばい右目の視力を失った。
自分より遥かに幼い、当時四歳の苑に獅童は守られたのだ。
情けない上、両親まで奪ってしまった。当然恨まれてもいいはずなのに、いつも彼女はきっぱりと「悪くない」という。
――まったくこれでは、どちらが年上なのかわからないな。
小さく苦笑いし、獅童は今年九歳になった、まだ幼い少女に感謝した。
苑もまた獅童と同じく、特異な体質を持っている。
しかし、それがどんなものなのか、彼も知らない。おそらく聞けば教えてくれるのだろうが、なんとなく、聞かない方がいいと獅童は思っていた。
聞いても理解ができない体質だと直感しているからかもしれない。
「さて、夕飯を作るから、少し待っていてくれ」
そろそろ、本当の暗闇が訪れるので、電気を付ける。すると、苑がぬいぐるみで顔を隠しながら、着替えにいくために自分の部屋、二階へ行こうとした獅童に駆け寄る。
「? どうした?」
「………………」
「えっ、ソウさんが来ていた? 夕飯を?」
急いで、キッチンへ見に行くとそこには、作り過ぎといっていいほど豪華な料理が並んでいた。しかも丁寧に一つの皿ごとに暖める秒数まで書かれていた。
「これはまた、今回は中華風か……」
青椒肉絲(チンジャオロース)、鱶鰭(フカヒレ)、春巻き、炒飯などなど、見るからにおいしそうな食べ物が、どうみたって二人で食べきれないほど並んでいる。
作りすぎにも程があるといっていい。なんだか、少し目眩がした獅童。
ソウさんは、獅童達の後見人であるキリトの執事を務めている人だった。
多忙な主人に変わって、時折、家にやってきては家事やずっと引きこもっている苑の世話をしてくれる。
ただ困るのは、完璧すぎて、やりすぎるってことだった。
彼の主人は、それ以上に、『謎』の人物だったなのだが。あの事故の後に台風の如くいきなり現れ、苑と獅童の後見人になった、と告げて去っていった。
押し売りよりたちが悪い、変な人達だった。
たまにきては、ニコニコと獅童達の話を聞き、知らない間に去っていく。神出鬼没で清々しいほど爽やかな風と例えるほどだった。
とりあえずはっきりしていることは、獅童の周りは変人達に囲まれているってことだ。
本人も変人に入るのだけれど……。
そんなことを露にも自覚していない獅童は、頭の中で自分の買った食材の日持ち計算と、テーブルに載ってある食材がタッパーに入りきるかを考えていた。
主婦並のやりくりをしている。
「とりあえず、温めて食べるか」
――今日買った食材は明日使うとして、この料理も冷蔵庫に入れておけば、明日あいつらが片付けてくれそうだな。
残飯処理班……もとい友人達にこれらを食べさせることにし、すばやく冷蔵庫へ向かった。
苑も長い黒髪をたなびかせ、無言で獅童の後ろについていく。穏やかな二人だけの夕餉が過ぎていった。
*** ***
「じゃあ、今日の午後あいつらがくるから」
玄関で大きなクマのぬいぐるみを引きずりながら、見送りしてくれている苑にもう一度告げる。彼女はこくんとうなずく。
本当は、苑も連れて行きたかったのだが、本人が外にでるのはいやだと答えたので無理強いはしなかった。
いったい一人の時は、何をしているのかだろうか。寂しくないことは薄々、感じていた。
一人ではないから……。
「おみやげ、買ってくる。なにかあったら、携帯に連絡してくれ」
またうなずく彼女を見て、獅童はいつも通りに、外へと向かったのだった。
後ろで、二つの視線が揺らいでいるのも気付かずに……。